大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和40年(ラ)186号 決定 1967年4月12日

抗告人 浜田富子(仮名) 外一名

相手方 大川エイ(仮名) 外一三名

主文

本件抗告はいずれも棄却する。

抗告費用は抗告人らの負担とする。

理由

一、本件抗告の趣旨および理由は、別紙のとおりである。

二、当裁判所の判断

当裁判所は、亡浜田ヤスの遺産である原審判添付の別紙目録記載の物件は原審が定めた方法により分割することを相当と認める。その理由は、次のとおり訂正附加するほかは、原審判がその理由三以下に説示しているところと同じである。

(一)  原審判の理由三枚目表一〇行目(本号九〇頁二三行目)に「これに反し三男治は」とある部分から同裏一行目(本号九〇頁四行目)に「父満吉が死亡後しばらくして治は家に帰り」とある部分までを「三男治は中学を中退し、東京、八丈島、南洋等を転々していたが、大正九年ころ館山に帰えり」に、同四枚目裏一行目(本号九〇頁一六行、一七行目)に「そこで富子は」とある部分から同裏末行(本号九一頁二行目)に「当日は」とある部分までを「昭和三八年三月二九日長男誠治が死亡するや、その後間もなく、春、富子、誠治の姉妹、弟らの間でヤスの遺産分割の話合いが行われたが」にそれぞれ改め、同五枚目裏末行(本号九一頁一五行目)の「貸与中である。」の次に「原審の審問の際における抗告人浜田富子、相手方大川エイ各本人、河田昇一の各陳述および当審に提出された岩田賢一、岩田鈴枝、浜田富子の各上申書の記載中右認定に反する部分は、採用しがたい。」を加える。

(二)  原審判の理由六枚目表一〇行目(本号九二頁二行目)から七枚目表六行目(本号九二頁一二行目)までを次のとおり改める。

抗告人らは、「ヤスの遺産は同人死亡後治がこれを取得したものとして占有していたところ、他の相続人らはこのことを知りながら相続回復の請求をすることなく五年以上を経過したから、他の相続人らの相続回復請求権は時効により消滅した。また他の相続人らはヤス死亡の昭和一八年五月一七日から右請求権を行うことなく二〇年の除斥期間を経過したから、右請求権は消滅した。」旨主張する。しかしながら、真正にできたと認められる乙第三号証の一、二、第四、第七、第九、第一〇号証と原審における抗告人浜田富子審問の結果とによると、抗告人らは、昭和三八年中、ヤスの遺産の分割方法に関し、本件抗告の相手方らとの間の争いを解決すべく、同年九月中から同年一〇月下旬にかけて抗告人鈴枝の夫岩田賢一を代理人として右相手方らとの間に遺産分割の方法につき協議を行つたこと、そして右抗告人ら代理人は、その協議のための折衝にあたり、終始、ヤスの遺産につき右相手方らに相続権があることを前提として話合いを進めていたことが認められる。(この点に関し、抗告人らは、岩田賢一が関与したのは一部の相続人に交付すべき金額の交渉に関してであつて、本件遺産の分割方法についてではない旨主張するけれども、前認定をくつがえして右主張事実を認めるに足りる資料はない。)

右認定の事実によると、抗告人ら以外のヤスの相続人らが治による相続権侵害の事実を知つた時から五年間、あるいは相続開始の時から二〇年間相続回復の請求を行わなかつたと仮定しても、ほかに別段の事情の認められない本件では、抗告人らは五年または二〇年の時効完成後に時効の利益を放棄したものといわなければならない(民法第八八四条後段に定める二〇年の期間は除斥期間でなく時効期間と解すべきである。)。抗告人らの右主張は理由がない。

(三)  原審判の理由七枚目表八行目(本号九二頁一四行目)から同裏一行目(本号九二頁一六行目)までを次のとおり改める。

抗告人らは、本件土地はヤスが死亡した昭和一八年五月一七日から治生前は同人が、治死亡後は抗告人らが引続き二〇年間平穏公然にこれを占有したから、抗告人らは時効によりその所有権を取得した旨主張する。しかし、昭和三七年一月治が死亡するや、そのころ、その妻である抗告人富子が、治の兄弟姉妹中最年長のエイに対し、兄弟姉妹間に本件土地分割の話を持ち出してほしいと依頼したことは前記のとおりである。そして、抗告人らが昭和三八年秋、ヤスの遺産につき相手方らに相続権のあることを前提として話合いを進めていたということをもあわせ考えると、抗告人富子もその長女の抗告人鈴枝もともに本件土地を所有の意思をもつて占有していた事実はないものと認めるべきである。してみると、抗告人らの右主張は、他の点について言及するまでもなく、理由がないとすべきである。

(四)  抗告人らは、相手方浜田安男、浜田伸夫、大川エイ、浜口琴はいずれも本件遺産につき相続人としての権利を放棄したものである旨主張する。しかし、このような事実は前記乙号各証によつても認めることはできず、かえつて、原審における相手方浜田安男、浜田伸夫、大川エイ各本人および酒井政子各審問の結果と右乙号各証とをあわせ考えると、右相手方らは、本件遺産分割協議の過程において、もし相続財産中からそれぞれ相当額の金員の交付を受けることができるならば本件土地または電話加入権自体について権利を取得しないこととしてもよいという意向を示したことがあつたにすぎず、遺産相続人としての権利をすべて放棄したようなことはないことが認められる。抗告人らの右主張もまた理由がないとすべきである。

(五)  抗告人らは、治はその兄弟姉妹らに比し最も長期にわたつてヤスとともに生活し、ヤスを扶養してきたほか、本件上地については固定資産税を納入するなどして多年これを占有管理してきた旨主張し、原審における抗告人ら本人各審問の結果によると、ヤスは大正一四年夫満吉死亡ののちも相当期間治とともに本件土地に居住していたものであること、ヤス死亡後治が固定資産税を納めるなどして本件土地を占有管理してきたことが認められる。しかし、原審における相手方浜田春、大川エイ各本人および河田昇一各審問の結果によると、亡ヤスは本件土地に居住していた間自己所有の建物に起居し、主として長男誠治の仕送りにより生活していたものであつて、格別治に依存して生計をたてていたものでないことがうかがわれるので、ヤスが治をきらつて娘のエイ、琴のもとに身を寄せ、琴の家で死亡したというさきに認定した事実に徴すると、治がその兄弟姉妹に比してヤスの生活のために寄与するところがとくに大であつたとすることはできない。治が多年固定資産税を負担するなどして本件土地の占有管理をしてきたということも、同人が格別の対価を支払うことなく本件土地の大部分を使用収益してきたことを考えると、これをもつて治を本件遺産分割につき他の相続人らと区別して優位に取扱うべき事情とすることはできない。

(六)  上記認定の事実関係を基礎として本件遺産の配分について考えるに、亡ヤスの生前同人の生活費の仕送りをしていた長男誠治の立場はある程度考慮を要するものがあるが、他の相続人相互間にはとくに差等を設けなければならないほどの特段の事情はないものといわなければならない。ところで、本件遺産分割調停の経過と原審における抗告人鈴枝本人審問の結果とによると、本件調停手続では、抗告人らも、また春を含む相手方らも、ともに本件土地を六等分して配分することには格別の異議はなく、春および抗告人らは、土地分割の結果、地上の所有建物が移動またはとりこわしの事態となつても差支えないとしていたことが認められる。これらの事情および本件にあらわれた一切の事実関係を参酌し、本件土地の形状を考慮するときは、本件上地および電話加入権については、原審が定めた方法によりこれを配分することが適切な分割方法であるとすべきである。

三、以上のとおりで、原審判は相当であるから、抗告費用の負担につき非訟事件手続法第二五条民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 新村義広 裁判官 中田秀慧 裁判官 蕪山厳)

参考 (原審 千葉家裁館山支部 昭三九年(家)四九九号 昭四〇・三・三〇審判 認容)

申立人 浜田安男(仮名) 外一二名

相手方 浜田富子(仮名) 外二名

主文

被相続人滝口ヤスの遺産である別紙物件目録記載の物件を次のとおり分割する。

別紙物件目録記載の(1)(2)の土地を別紙図面のとおり六分し、

申立人浜田安男は<4>の部分四九・四坪を、

申立人浜口琴は<2>の部分四九・三五坪を、

申立人浜田伸夫は<5>の部分四九・四四坪を、

申立人浜田春、加藤好子、神田徳子、大山あや子、浜田孝一、武田光子、浜田弥太郎、浜田英吉、浜田恭子、浜田栄子は共同で<1>の部分五〇・八二坪を、

相手方大川エイは<6>の部分四九・八二坪を、

相手方浜田富子、岩田鈴枝は共同で<3>の部分四九・八七坪を、

各取得する。

相手方浜田富子、岩田鈴枝は共同で電話加入権館山局○○○番を取得する。

理由

一 (申立人等の申立)

申立人等は、被相続人浜田ヤスの遺産である別紙物件目録記載の(1)(2)の不動産(以下本件土地という)につき、適正な分割を求めた。

二 (相手方浜田富子、同岩田鈴枝の主張)

相手方浜田富子、同岩田鈴枝両名代理人は次のとおり主張した。即ち、被相続人の長男誠治、次男安男、四男伸夫はそれぞれ高等専門学校を卒業し、郷里に帰らず、満洲、朝鮮、内地等に職を求めて独立し、長女エイ、次女琴は他家に稼したが、三男治のみが両親満吉、ヤスと共に家に居り、父満吉死亡後は母ヤスの世話をすると共に、満吉の遺産およびヤス名義の財産の管理納税等一切を行つていた。このようにして他の兄弟姉妹等は治の占有、管理を当然のこととして認めて来ていたので、被相続人母ヤス死亡の当時その相続分を治に黙示の贈与引渡があつたものである。仮りにそうでないとしても、申立人等兄弟姉妹が自己に相続のあつたことを知つていたとすれば、その相続回復請求権は五年の短期時効が完成して消滅しておるものであり、また知らなかつたとすれば、被相続人ヤス死亡の昭和一八年五月一七日から既に二〇年の除斥期間が経過し相続回復請求権は消滅したものである。その上相手方富子、鈴枝は治(昭和三七年一月二五日死)の権利義務を相続したのであるから、治のときから引続き二〇年間所有の意思を以て平穏且公然に占有したのであるから、時効によりその所有権を取得したものである。以上のとおりであるから、いずれにしても、申立人等の遺産分割請求は理由がない。

三 (当事者等の続柄関係並びに相続分)

本件記録中の戸籍謄本によると、当事者等の続柄関係並びに相続分は次のとおりであることが認められる。即ち夫浜田満吉、妻ヤス、間に長女エイ、長男誠治、次男安男、三男治、次女琴、四男伸夫の四男二女があつた。ヤスは昭和一八年五月一七日死亡したので本件遺産相続が行われた。その後昭和三七年一月二五日治が死亡したので、その妻富子(相手方)および子石田鈴枝(相手方)がその相続した。次いで昭和三八年三月二九日誠治が死亡し、その妻春(申立人)および長女好子、次女徳子、三女あや子、長男孝一、四女光子、次男弥太郎、三男英吉、五女恭子、六女栄子の九子がその相続をした。この身分関係を図示すれば別紙身分関係図のとおりである。従つて、きくの遺産の相続分は次のとおりとなる。

エイ 六分の一

春およびその子九名の共有(誠治相続人) 六分の一

安男 六分の一

富子、鈴枝の共有(治相続人) 六分の一

琴 六分の一

伸夫 六分の一

四 (認定した事実)

本件記録並びに申立人浜田安男、同浜田伸夫、同浜田春、相手方浜田富子、同岩田鈴枝、同大川エイ、並びに大川多喜子、酒井政子、河田昇一の各審問の結果を総合すると、次の事実が認められる。即ち、浜田満吉、ヤス夫婦存命中、長男誠治は東京高等商業専門学校を、次男安男は東京外語学校を、四男伸夫は長崎高等商業学校を、それぞれ卒業し、誠治は満洲へ、安男は朝鮮へ、伸夫は四国へ、それぞれ職を求め、各独立して生活していた。また長女エイ、次女琴は他に稼していた。これに反し三男治は性行が治らず、他の兄弟のようにゆかず、中学を中退し、職を転々としており、父満吉存命中は家に帰ることも許されなかつた。大正一四年四月六日父満吉が死亡後しばらくして治は家に帰り、本件土地の上に在つた従来からの家に居住し、新聞販売店の経営その他の職業を経て、地方小新聞の発行経営により生活を立てていた。治は昭和三、四年頃から眼を病み、日常生活に不自由となり、その後全く失明した。失明後も妻富子の助けをかりて新聞事業を続けていた。父満吉の死亡後、治は母ヤスの世話をせず、ヤスも亦治をきらつて、娘のエイや琴の家に身寄せ、又誠治の仕送りを受けて生活していたが、最後は琴の家で昭和一八年五月一七日死亡した。母ヤスが死亡したが、当時は戦争中であり、その子等は、治以外は誰も家に帰つて来て居住する者はなかつたので、治は従来通り本件土地の大部分を占有して来た。その間誠治は本件土地の東の部分に家を建て、治も亦、それより西の部分に家を建てた。それ等の家屋は現存している。その後終戦により、誠治や安男も内地に引揚げて来、誠治の家族は前記本件土地の一部に在る自己の家屋に居住したが、安男や伸夫は他に住居を定めた。この間、兄弟姉妹等は、両親の財産は長男誠治が相続したものであつて、他の者は相続権がないものと考えていた。安男や伸夫は戦後の混乱期で生活が苦しいときは、誠治が長男と援助すべきものと考え、且つ期待していた。ところが、昭和三七年一月二五日治が死亡するや、その妻富子は、長男誠治から、治の死亡により自分が現住家屋(本件土地)から排除されやしないかと恐れ、本件土地を遺産として兄弟姉妹で分割することによりその一部を確保したいと考え、先ず最年長のエイに対し、「エイから遺産分割の話をいい出して貰いたい」と依頼したが、エイは自分は他家に嫁したものであるからとて、その申出をためらつた。そこで富子は昭和三七年四月四日頃治の百カ日の法事に兄弟姉妹が集つた際に、ヤスの遺産として本件土地を分割して貰いたいと申出たところ、全員これを諒承した。然しその分割の方法については話がはかばかしく進まなかつた。ところが翌三八年三月二九日誠治が東京で死亡し(当時東京に居住していた)、その告別式を館山の教会で行つたが、これに集つた兄弟姉妹達に対し、富子はまたヤスの遺産の本件土地の分割を求めた。富子は自分の取得分を確保したいと考え、誠治の妻春の東京へ帰るのを延期させ、この際分割を確定するように求めた。そこで協議の結果、ヤスの遺産である本件土地を兄弟姉妹(誠治、治の分はその相続人が)で分割することを全員が承諾し、その分割方法の協議に入つたが、当日は分割方法までは決定するに至らなかつた。その後、分割方法について富子と他の兄弟姉妹との間に協議が続けられ、これに岩田賢一が妻岩田鈴枝の代理人として加わり協議し、一応分割方法も決定したが、富子側が自分の取得分を多くしようとしてこれを覆すなどして、遂に分割方法の協議は不成立に終つた。そこで申立人等は昭和三九年二月二八日当裁判所へ遺産分割の調停の申立をした。その調停の結果、当事者双方共遺産の分割には異議なく同意し、その分割の方法について協議を進めた結果、先ず本件土地の南側を一間巾に通路を作りこれを各人の共有地とし、その他の部分を六等分に羊かん切に分割し、各人が希望する部分を取得することに話が決まり、次回までに測量土に測量させて、その図面により次回に分割を決定することにしたが、その次回期日に富子、鈴枝の代理人は従来の協議の結果を覆し、調停に応じられないと主張したため、調停は不成立に終り、その結果本審判に移行したものである。

本件土地は、二筆で、東に二二九番、西に二二八番が隣接しており、登記簿上は合計二六五坪であるが、実測は約三〇〇坪あり、その東寄りの二二九番の約七五坪は長男誠治の相続人(春およびその子等)が占有し、その地上にその所有の家屋が現存している。またその他の部分には治の相続人富子、鈴枝共有の家屋が現存し、同人等が占有している。この富子、鈴枝共有の家屋は、東側の部分は住居になつており、その西側の部分は新聞印刷工場になつているが、その工場の部分は既に朽廃の状態に近く、住居の部分も丸太で支えている状態である。また本件土地の西寄の部分(川端)は富子により他に貸与中である。

五 (相手方富子、鈴枝の抗弁について)

(1) 暗黙の贈与の主張。

相手方富子、鈴枝は、被相続人ヤスの死亡当時、暗黙の贈与を受けたものであると主張するが、その贈与を認める何等の証拠もない。却つて、申立人や相手方エイの審問の結果によれば、当時の相続人等は、本件土地も長男誠治が相続したものと考えていたことが認められるので、贈与なぞ勿論考およばなかつたものと認められる。よつて贈与の主張は理由がない。

(2) 相続回復請求権の消滅時効の主張。

相手方は、相続回復請求権の消滅時効により消滅したと主張するが、前記認定事実のとおり、申立人等が自己に相続のあつたことを知つたのは治死により一〇〇カ日の法事の日である昭和三七年四月四日頃であるから、それから未だ五ヵ年を経過していないので、五年の時効は完成していない。仮りに申立人の内に、それより以前に自己に相続があつたことを知つたため昭和三七年四月四日以前に五年の時効が完成したものとしても、昭和三七年四月四日に富子より遺産分割の申出があり、その後鈴枝もその代理人夫岩田賢一を通じて分割方法の協議に参加しているのであるから、共に時効の利益を放棄したものと認められる。また相続開始のときより二〇年の時効については昭和三八年五月一七日に時効は完成するわけであるが、昭和三七年四月四日頃の治の一〇〇カ日の法事の際に富子より遺産分割の申出があり、他の相続人は承諾しており、その上昭和三八年四月初め誠治の告別式の際再び富子より分割の申出があり、他の相続人が承諾し、その分割方法の協議には鈴枝の代理人夫岩田賢一が参加しているのであるから、富子、鈴枝は二〇年の時効完成前に遺産分割を承諾したことにより二〇年の時効は中断されたものである。よつて、いずれにしても五年の時効も、二〇年の時効も共に完成していないのであるから、富子、鈴枝の主張は理由がない。

(3) 取得時効の主張

相手方富子、鈴枝は、所有の意思をもつて平穏公然二〇年間占有したから、本件土地の所有権を取得したと主張するが、前記認定のとおり、治、富子、鈴枝に所有の意思はなかつたものであり、その上、前記のとおり、ヤス死亡の時より二〇年以内に遺産として分割を承諾しているのであるから、いずれの点よりみても、取得時効は完成していないものである。よつて取得時効の主張は理由がない。

六 (遺産の範囲)

(1) 本件土地がヤスの遺産であることは、当事者間にも争いがなく、本件記録によつても認められる。

(2) 登記簿謄本によれば、ヤス名義の家屋(物置、七坪五合)があることが認められるが、検証の結果によれば、現在本件土地の上にある富子、鈴枝共有の家屋の一部のようになつており、既に朽廃しており、遺産として分割することもできないし、またその価値もないものと認められるので、本件遺産に含めないことにする。

(3) 館山電報電話局長の証明書によれば、ヤスの遺産として電話加入権があつたが、昭和三七年一〇月四日富子が勝手に富子名義に変更したことが認められる。現在富子名義になつていても、ヤスの遺産であることに変りはないのであるから遺産のうちに入るものである。

七 (分割の内容)

本件土地は二筆であるが、地続きで、ほぼ長方形をなしており、東側は道路に面し、西側は川に面している。

これを別紙図面のとおり六分割し、

<1>の部分は春およびその子九人が共同で取得し、

<2>の部分は琴が取得し、

<3>の部分は富子、鈴枝が共同で取得し、

<4>の部分は安男が取得し、

<5>の部分は伸夫が取得し、

<6>の部分はエイが取得

することにする。このように分割すると<1>以外の部分は袋地となるが、これらの袋地から道路へ出る通路をどこにするかは当事者間の協議によるのが妥当と考える。また各取得部分と、現存の家屋との関係を考慮しなければならないが、調停の時および審問のときの各人の希望をも考慮して、各人の取得部分を決定した。電話加入権はヤスの遺産であるが、満吉死亡後、治が家に帰つてからは治が使用し、以来基本料金等も負担して来たことが認められるので、これは富子、鈴枝に取得させることにした。

(家事審判官 稲垣正三)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例